さて若きトミーのドタバタ人生の続き、この記事は「旅日記 還暦親父の諸国漫遊記」に連載されたのを「さくなろ道場」用にリライトした記事です、あの時に紹介できなかったあんな事も…。
人生なかなか上手くいかなく、もがいていたトミー青年にあるディレクターから神のような一言が…「トミー、OTくん知っているよね、彼が新しく作家事務所を作るので手伝ってあげてくれない?」そしてトミー青年、何も考えずに「いいですよ」と答えてしまった。
これがその後の人生に大きく舵を切った瞬間、怒涛の人生のスタートでした。
この記事の内容は
- トミー青年、株式会社ロックオンカンパニーのスタッフになる
- スタジオ廻りで最初に紹介されたギタリストがあの、、、
- ロックオンはマンションの一室、何も無い一室からスタート
- トミー、肩書好きにしていいよ、じゃ「社長の片腕 トミー染川」で
- 新米トミーは西平くん、西本くん、作曲のTsukasaくんの担当に
- プリプロダクションをレコーディングに取り入れたのも革命だった
- プリプロでメンバーに仕事しやすい環境を作れ
- 今日のお薦めの一曲
- 【トミー爺の関連サイト】
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トミー青年、株式会社ロックオンカンパニーのスタッフになる
この会社、通称ロックオン、、(ただし、楽器屋さんとは違う作家事務所)に入ったは良いが、そこに所属している人が凄い人たちってことは、その当時全く理解できていなかったトミー青年、、恥ずかしながら…笑い。
【会社の概要】
1988年
創業 レコーディング制作、プロデューサーマネジメントを始める。
同時にロサンジェルスにロックオンアメリカ設立。積極的に海外録音を行う。数多くのメジャーアーティストのレコーディングに参加。メンバー:大村雅朗、清水信之、中村哲、西平彰、西本明、飯泉俊之
Tsukasa、後で、松本晃彦、山川恵津子、佐藤隆、水島康宏、加入。1994年
プロダクション業務開始
森俊之 加入 樋口了一 作家加入1996年
河野圭加入。
1998森俊之とともに宇多田ヒカルのレコーディングに参加ー(株)ロックオンカンパニーのサイトより抜粋ー
立ち上げメンバーの凄さが分かったのは会社が出来て少しして、キックオフパーティーをすることに、焼き鳥屋さんの個室を借りて「ガンバロー」ってやったんですが、そこにUSENが流れていて、そこで流れる曲の八割が今ここにいるメンバーの作品だった、、これってすごくないですか?
そんな中に駆け出しスタッフとして参加できたわけです。
とはいえその中で一番経験が無かったのもトミー青年だったのは確実、笑い。
ちなみに1996年に加入した河野圭くんはそこから数年後に宇多田ヒカルさんの「Automatic」で大ブレークする、、
彼以外にも当時の音楽シーンの中心で活躍するメンバーばっかりですよ。
スタジオ廻りで最初に紹介されたギタリストがあの、、、
右も左もわからないトミー青年、とりあえず社長のOTさんとスタジオ廻りをすることに…そこで色んな人に紹介されたり、色んな会話をするのだけど、最初に紹介されたミュージシャンがギタリストの今剛(こん つよし)さん。あのスタジオミュージシャンのトップクラスの人、レコードのクレジットで何度も見ている人が目の前に…
「コンちゃん、彼、今度一緒にやるトミー、彼は優秀だよ」
「トミー、よろしくね!コンです」
こんな自然な会話ビビりまくったトミー青年、、確か音響ハウスの1stロビーだった記憶が…
その後もクレジットでしか見たことが無いミュージシャンたちと一緒に仕事をすることに、そして後日そんな超一流メンバーの演奏に良いとか好きとか言っている自分がいるって、この時はまだ想像すらできない…
ロックオンはマンションの一室、何も無い一室からスタート
最初に事務所を借りたところが六本木のマンションの一室、まだ机も運び込まれていない状況で、一緒に働くことになったM子ちゃん、彼女はそれまでバリバリのスタジオマネージャーだった、、
何もない床にファックスが入っていた段ボールを机変わりに、電話は床に直置き状態での仕事スタート。
床に座ってそこで手帳を広げて電話を取る「ハイ、ロックオンです」、、これが一番最初、ロックオンカンパニーのスタートでした。
それでどんな仕事をしていたかというと、担当プロデューサーのスケジュール管理とそれに関連する打ち合わせ、その時期に有名アイドルグループのメンバーのソロ活動のレコーディングを請け負っていたのでそのプロダクトマネージメントが主な仕事。
それを3人で切り盛りする事になった。
ロックオンに参加しているプロデューサー達ってみんな第一戦で活躍している人たちばかりなので、毎日スタジオワークをしていて、それに関する日程調整やミュージシャン、エンジニア、スタジオブッキングなどを取り仕切る仕事がメイン。
そしてスタジオワークって日々状況が変化するので、必ず夜、スタジオに顔出してメンバーと問題ないか?を打ち合わせし、その場で解決できる事は夜中でも動く、あとクライアントと全体流れの確認などする、、当時「ロックオンのスタジオ巡業」と言われていたらしい、、笑い。
当時のレコーディングは13時スタートで大体が深夜25時、26時ころまでやっていたので当然トミー達の帰宅は深夜深い時間が当たり前になっていったんです。
若かったからできたのかもしれないですね…
トミー、肩書好きにしていいよ、じゃ「社長の片腕 トミー染川」で
そうそう、その時の名刺なんだけど社長のOTさんに「トミー、肩書だけど好きにつけて良いよ」と言われて、それまでの名刺が嵐さんの所で「子分」だったので、そこは目立つ事を優先して、、つけたのは
社長の片腕 トミー染川
これは大うけだった、大会社の社長さんからは「トミー、どっちの腕?」なんて名前と顔を覚えてもらうことが早かった。
電話でも「社長の片腕、いる?」なんてかかってきたこともあった、、笑い。
sakunaro-dojo.sakushisakkyoku.com
新米トミーは西平くん、西本くん、作曲のTsukasaくんの担当に
最初に担当したのは「西平彰くん」「西本明くん」「Tsukasaくん」をメインで、それ以外のメンバーも必要な時にサポートしていくことに…
西平くんは、当時売れっ子のプロデューサーでトミーがロックオンに所属した当時名前を知っていたのは彼だけだった、確か当時は平松愛理さん、鈴木祥子さんなどを担当、その後は氷室京介さんのライブ、レコーディングで大活躍の人
西本くんはピアニストとして佐野元春とハートランドのメンバーだったけどプロデューサーとして活動する為にバンドをお休み、プロデューサーとしてこれから活動していくスタートの時期。
Tsukasaくんは以前から一緒にやっていた流れでロックオンにも加入、のちに鈴里真帆さんのプロデュースで活躍。後日ロックオンを離れてから、ジャニーズの嵐「時代」の作詞作曲、編曲で大ブレークをした。
プリプロダクションをレコーディングに取り入れたのも革命だった
それと今、当たり前に使われている「プリプロダクション」(通称、プリプロ)を最初にレコーディングに導入したのもロックオンが最初だったと思う。
当時のレコーディングってスタジオにミュージシャンを集めてベーシックレコーディングをして、その後にギターなどをダビングしていく…というのが主流。
今と違って当時のスタジオ代は最低でも一日40万から50万くらいの費用が掛かっていた。あの時代、今のようにPCでレコーディングはできなかったので、すべてスタジオを使った作業をしなければいけなかった。
トミーが所属していたロックオンってアメリカにもロックオンアメリカという提携会社があった。現在ネーチャーサウンドクリエーターとして活躍しているジョー奥田くんが社長として日本とアメリカのレコーディングを橋渡しする仕事をしていた。
当時、海外レコーディングが盛んでロックオン自体も海外レコーディングを積極的に推進していて、その流れで日本にアメリカRECスタイルを導入するアイデアが生まれてきたんですよ…
そこにはある理由があるのですが、、、
プリプロでメンバーに仕事しやすい環境を作れ
当時の所属メンバーは時間をかけてスタジオワークをしていて、イコール予算との板挟みでトミー達、マネージャーが必死にクライアントと折衝していて、何とかそれを打開できないか…と日々奮闘していました。
編曲家の作品クオリティをキープする為には時間と予算がかかる、、でも予算が足りない…そこで考えたのがプリプロダクションの導入。
「トミーさん、今回予算があまりなく何とか協力してもらえませんか?」
つまりギャラを安くしてください。という事なのでそれはできないのでこういう提案を
「じゃ、本RECの前にプリプロをさせてください。スタジオ代も安くできるし…」
こんな会話をしながら担当プロデューサーの仕事と環境を守る事に必死…
当時のアメリカではプロデューサーやアーティストが自分スタジオでレコーディングをして必要な時に外部スタジオを使うスタイルが定着して、又は数か月間スタジオをロックアウトで貸切って「まとめて長期で使うから安くして…」こんな方法で予算を圧縮していた、、その中でプリプロという作業が効果的という事でそれを日本でも導入するように働きかけた時期でした。
プリプロはシンセのマニュピレーターとプロデューサーが小さいスタジオで作業をして曲のアウトラインを作りこむ、そしてそれをスタジオに持って行ってレコーディングをしていく…この方法だと一日4~50万かかっていたスタジオ代金が一日10万くらいに圧縮できる…
同じ予算の中で1日しか使えなかったスタジオが2~3日使えるようになる、、
良い方法だと思いませんか?
当時、プリプロ?なにそれ?って感じだったけど、徐々に浸透していったのも記憶があります、、下で紹介する伊豆田くんのアルバムも全曲日本でプリプロをして、ガイドラインを作ってからLAでレコーディングしたんです。
今だったらHDでデーターを持っていく…という感じだけど、当時はそんな物無かったので、、どうしたか…それはアナログのマルチに全曲録り込んで、それをトミーと西本くん、そして伊豆田くんの3名が飛行機に持ち込みLAまで飛びましたよ、、めちゃくちゃ重かった
まだまだ続きます、、
今日のお薦めの一曲
当時、西本くんとジョーと一緒に作り上げた伊豆田洋之くんのアルバム「クラブトランプス」の中の一曲「アルゴ」すごく良い曲、いい風が吹いてくる感じ…
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